やば記

日記です。日々をおもしろがりたい。

死に際に見る夢[2020/3/3]

・こんにちは。はまです。


・今日はなーーんにもなかったな。火曜日ってのはたいていなんにもない。強いて言うなら松屋のプレミアム牛めし(並)に半熟玉子をのっけた。

 

 

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・毎日のようにプレミアム牛めし(並)の写真を撮るのでカメラロールにプレミアム牛めし(並)の写真がかなりたくさんある。カメラロールにあるプレミアム牛めし(並)の写真の枚数なら全国的に見ても上位に食い込むんじゃないか?誰かカメラロールにあるプレミアム牛めし(並)の写真の枚数を競う機会をください。

 

・仕事の合間とかに興味のある技術について勉強している様子を上司にすこし褒められた。褒められると嬉しいのでその調子でたくさん褒めてくれ。

 

 

 

・幻覚とか幻聴は分かりやすく「やべー症状」だけど、どうして「夢」はやべー症状として扱われないんだろうか?とふと思った。(この場合の「夢」とはdreamのほうの夢のことです。ってどっちもdreamじゃん!やべーほうの夢のことです。)

 

・以前「後輩の女の子の脱ぎたての靴に入ったゼリーを食べる夢」をみたことがあるけど、夢だしまあそういうこともあるよな、となった。


・これがもし「後輩の女の子の脱ぎたての靴に入ったゼリーを食べる幻覚を見た」だったらかなり終(しまい)という感じがする。ゼリー大好きなドMが死に際に見る幻覚じゃん。

 


・「夢」はすべてを許容する。しかしそんな寛容さとは裏腹に、「すごい夢を見た」という興奮の共感できなさ&されなさもまたすごい。

 

・夢のなかの突飛な出来事たちは、思い返せば意味不明に感じるが、実際はその世界なりの秩序に沿って発生している。なのでその秩序の中でしか味わうことのできない緊張感やリアリティがそこにはあって、その感情を秩序の外側の住人たち(=自分以外)に共有することは本質的に不可能なのだ。

 

・ふつうに考えて「脱ぎたての靴に入ったゼリー」なんてかなり食べたくない(ゼリー大好きでもなければMっ気もあんまりないので。後輩はかわいかった。)んだけど、夢の中でとはいえ実際に「脱ぎたての靴に入ったゼリー」を食べた経験が僕の中には確かにあります。そこには間違いなく秩序があって、不思議とまんざらでもなかった。


・でもその感想は誰にも共有できないし共感してもらえない。脱ぎたての靴に入ったゼリーを食べる時、人は孤独なのだ。

 


・別の秩序の上で成り立っているから「夢」は現秩序世界では共感されないが、逆に言えば、すべての前提(=別の秩序)をすべて共有することができれば「夢」のような話にも感情移入や共感ができる、ということになる。


・そしてそれ(=別の秩序世界の共有)を実際に、とても高いレベルでやっているのが漫画家や小説家といった職業の人なのかもしれない。

 


・まとめ。


「夢」とはすべての前提となる「秩序」が異なる世界での出来事なので、大抵の場合共感はされないが「やべーやつ」とも思われない(しょうもない創作として受け取られ、流される)。


「幻覚」は我々の住む秩序世界に「無秩序」(あるいは「別の秩序」)を持ち込む行為なので「やべーやつ」として扱われる。幻聴も然り。


・本来は共感を得られない「夢」だが、その世界の秩序や構造を丁寧に描くことで「別の秩序世界の物語」を人に伝え共感させることのできる力を持った人間が稀に存在し、彼らは漫画家や小説家という職業で活躍している。

 

 

・本当に何も考えずに書いたら一応いい感じ(いい感じか?)のところに着地したので助かった。


・でも別にこんな話を書きたかったわけじゃないな。書きたかったことがあるわけでもないけど。


・小説家になって後輩の女の子の脱ぎたての靴に入ったゼリーを食べる話を書こうかな。

 


・よく考えたら「後輩の女の子の脱ぎたての靴に入ったゼリーを食べる夢」をみたって言われたらふつうに「やば」って思うな。ゼリー大好きなドMが死に際に見る夢じゃん。

 

 

 

・ぶり大根が食べたい。ぶり大根好きなんだけどまだ食べたことないんだよね。憧れの存在、ぶり大根。